極める。突き抜ける。

ツイッターで先日、みっちさんを見つけた。思わずフォローした。

その発信の中で、投資のテクニカルはいくつものチャートを覚えるよりも、たったひとつの指標を覚えてそれを徹底的に極めた方が速く成長する、とあった。

 

あれもこれも、と手を出すよりも、たったひとつの「型」をまず身に付ける。

この考えを自分の文章に当てはめてみた。

 

わたしが書く文章はどうだろうか。

正直に言って、わたしの文章に「型」はない。

ずっと独学で書き、学んできて身に付けてきたからだ。

 

小説を書いていた時は、小説に必要な「型」を学び、実践してきた。

今なら「読み手を意識する」ことを前提にブログ、という場を使っていることになる。

 

が、この「読み手を意識する」。ただこれだけを極めようとする、というのは、みっちさんの「ひとつの指標を極めろ」とは違う気がする。

 

次元が違う気がするが、恐らくは抽象度の次元が違うのだろう。

 

「ひとつの指標を極める」というのは、具体的な部分を徹底して突き詰めろ、と言っているように聞こえる。

一方で「読み手を意識する」というのは、いささか抽象的に見える。

だからいざ書いたとき、具体的な部分で方向性が分からず迷ってしまうのだろう。

それはこれまで繰り返してきた失敗に通じるものがあるように思う。

 

ならば、文章を書くにあたっての「ひとつの指標を極める」というのはどういうことなのか。

文章の「型」をひとつ決め、テーマを決めてその内容を徹底して書いていく。そういうことだろうか。

 

自分の分野を徹底して絞る。

ニッチを狙う。

ひとつのことを突き詰める。

 

これまで幾度となく学んできたことなのに、そういえばあまり実践してこなかったことのように思う。

これがひとつ、自分に向けられた方向性なのかもしれない。そう思った。

愛おしい人

ふとしたきっかけで、愛しい人(人?)について改めて調べる機会を得た。

ちなみに相手は一般の個人ではないのでストーカーではない(笑)

 

元々伝えられている情報は少なく、どれも憶測の域を出ないので、正直それらを手がかりに想像力を膨らませていくくらいしか、この相手をより詳しく知る方法がないのが実情だったりする。

 

厳密に言えば、情報の大本になっている書物を読むことができればもう少し詳しく知ることもできるだろうが、残念ながらまだそこまで至ることができていない。

(そして多分、今読んだところでろくに内容を理解できずに終わるだろう)

 

 

 

けれども今は、想像力を働かせながら蜘蛛の糸のような情報をたぐっていくだけでも充分だった。

今回新たにたどり着いた情報は、それまでに知った「系の外」の見方を当てはめると、この相手のみならずそれぞれの世界観に対する解釈の違いや関係性まで見えてくるようだった。

 

この相手は、とても厳しく、優しく、高潔なイメージをずっと持っていたが、そこに至る前に、今回たどり着いたエピソードがあったのであれば、彼女に対するイメージは多くの人間くさい、欠点の目立つ部分を受け入れ、乗り越えた上で至った境地なのかな、と感じた。

 

なんだか、とてつもなく親近感を感じた。

それと同時に、自分もこうなりたいと思ったし、もっと相手のことを知りたいと思った。

 

 

ハッ!これが……恋!

ストーリー

自分のストーリーをどこまで語れるだろうか。

振り返れば、人に語れるストーリーはたくさん作ってきた人生だった。

 

けれども語る相手がいなかった。

気軽に語れる機会をあまり持って来なかったから、チャンスが来ても上手く語れなかった。

それが「今」にまで通じる無念や後悔に繋がっているのだろうか。

そしてそれらがより成長するための原動力になってくれるのだろうか。

 

自分の人生を振り返ろう。

自分のストーリーを語っていこう。

 

それが今、自分に求められているもののように感じている。

美意識

美しい、とはどういうことか。

美意識、美学とはどういうものか。

 

頭で考えても分からないのかも知れない。

 

今、やりかけていることのひとつは、自分のためではなく、これ以上被害者を産まないように、という思いで始めていることだ。

稼ぎ方に関する詐欺商材を引いた。その詐欺暴露記事だ。

 

表現が難しいものだと感じている。

書き方ひとつで自分と相手を加害者・被害者と位置づけ、彼らを糾弾する書き方ができるからだ。(というかそれが一般的な書き方になる)

 

しかし、加害・被害の関係性に立って相手を糾弾するやり方は、正直言って美しくない、と感じる。

またそれにより彼らが良い方向に進むとも思えない。

それならば販売者も、被害に遭った人も品上がれる書き方が何かできないだろうか。そんなことを考えてしまう。

 

おそらくは中々難しいことだし、そこまでやらなくても関係者は納得してくれるだろうと思う。

しかし困難に挑戦して自分の信念を貫かねば、何のために挑戦する意味があるのだ、と思ってしまう。

 

金儲けがどうのという低レベルな考えをする必要はない、と感じている。

むしろお金を意識すればたちまち流れが滞る。

わたし自身が金儲け、という低レベルな考えをしていないからだろう。

 

まずは与える。まずは伝える。

そうして発したものが返ってくる。その循環を受けて豊かになっていく。

そんな流れを期待していたではないか。

 

困難・苦難の道であることは重々承知の上。

そんなギリギリのやり取りをするからこそ、品上がり、神がかることができるものだ。

見つけた境界

「境界の人」。

自分をそう思っている、と書いたことに対してここまで話が広がるとは思っていなかった。

「龍の神様と出会うたったひとつの方法」を読んだ際、改めて自分の龍を調べ直した。

結果はもちろん変わらずだったが、運命数が「水竜」にギリギリ分類される30だった。

占いはまだそこまで詳しくはないが、この運命数の大きさや分類の中のどの辺りに位置するか、に対しても何らかの意味合いがあるように感じた。

 

同時に星座占いでも分類ギリギリに位置するのは偶然ではないのかもしれない。

生まれた年だけでなく、生年月日で見ても境界に由来していた。

 

 

また部屋に飾っている絵を改めて見返した。

その多くに「水」と「太陽」が映っていた。

半分ほどは、朝日か夕日の写真。

 

無意識の内に境界に惹かれているらしい。自分のことをまた一つ知る事ができた気がした。

品上がる

「龍の神様と出会うたったひとつの方法」を読んだ。

タイミングとしてはドロップアウトする形で仕事を辞め、現在求職中。

どこかに所属して働くことに対する疑問が未だ拭えない一方で、やりたいことだと生活が成り立つ目処が立たない状態。

 

まあ幸いにもやりたいことは、どこかでの勤めと同時進行で行えることなので、戦略としてはどこかに勤めながらそちらでの独立を狙うのが一番賢いだろうか。

 

話を戻そう。

本を読んで、自分の六竜について調べた。

私は水竜だ。品上がるためには「美意識を持つ」「囚われない」「一日一生」。

今悩んでいる「やりたいこと」を貫き通せと言われているようにも感じる。

 

また「水」の流れは情報の循環にも相通ずる。

情報を受け取るだけでなく積極的に発信していくことが道を拓くポイントにもなっているように感じた。

今やろうとしていることが正しいのだ、と改めて背中を押して貰った気がした。

 

その際、発信方法に迷うことだってあるだろう。苦難や挫折は水竜にとってむしろ必要なものらしい。

 

「敵を知り己を知れば百戦危うからず」。

その「敵を知る」「己を知る」ためにも書き続けていく必要がある、と強く感じた一冊だった。

境界に身を置く意味

「境界の人」。
私は以前、自分のことをそう書いた。

境界に立つということは、両方の世界を見て、その違いを知ることができるということ。

その「知」は、相手に伝えれば価値を生む。

よく海外から留学した人が「母国と日本の架け橋になりたい」と語っているが、境界に立つと同じ役割を果たすことができる。

あっちの世界とこっちの世界の橋渡し、だ。



それは時に孤立することになるかもしれない。
逆に、通訳として相互理解を促すことだってできる。

その流通は双方の世界を豊かにし、新たな結びつきを生む。
また他の者が同じ役割を果たせるようになれば、自らは新たな場所、新たな役割が与えられる。

それはもしかしたら、とっても大切で、とっても重要なことなのかもしれない。