答えはどこにある?
「答えは自分の中にある」というが、これは嘘だ。
自分の中に答えはない。
自分の中にあるのは、答えに繋がる様々な情報のみであり、無数の選択肢だ。
では答えはどこにあるのか。
それは「自分と相手の間」にある。
相手、とは、人かもしれないし、現象かもしれない。目の前にあるかもしれないし、頭の中にしかまだないのかもしれない。
要は「対応する何か」があり、それに応じて自分の中から引き出される答えは変わってくるということだ。
人が悩むのは「何とかしたい」という思いがあり、現状に不満を持っているからに他ならない。
そんな時は「自分」と「目指したい未来」の間に答えがある。
(余談だが、こういう時は大抵この答えに向かう途中に一般論などの障害がある)
逆に言えば、答えが欲しいなら「相手」を先に決めてしまえば良い。
誰のために答えを探しているのか。
何のための答えが欲しいのか。
どんな結果に向かう答えを求めているのか。
その「相手」が、結果的に自分の中から答えを引き出してくれる。
「相手」がすぐに見つかるとは限らない。
なぜなら人は、自分のことも含めて全てを知っている訳ではないから。
そういう時は漠然とでいい。
漠然と相手を定めれば、漠然とでも答えは見えてくる。
そして同時に自分を知らねばならない。
自分を知って、自分の求めている答えを知る。
そのためにはよく観察して、じっと声なき声に耳を傾ける。
きちんと向き合い、対話する。
雑音の多い時間ばかりでは、これはできない。
音を消して、雑念を払って、自分と向き合う必要がある。
それは孤独に苛まれる瞬間かもしれない。
底なしの闇に見えるかもしれない。
しかしこの闇を恐れれば、これまで通りの自分に逆戻りするしかない。
新たな自分に生まれ変わりたいなら、闇を受け入れるしかない。
誰もができることではない。
しかしこれをやらなければ、大きく変わることはできないだろう。
自分は何を求めているのか。
その「相手」次第で答えは変わる。
正しい「相手」を見つけるには、闇を恐れず自分と向き合う瞬間が、いずれ必要になるものだと思っている。
豊かさって何だろうか
この空しか映さない窓を見ながら食事をして
「ああ、なんて美しいんだろう」
と感動できることが
自分が昔よりも豊かになれた
何よりの証なのだな、と思う。
「豊か」というのは、モノをたくさん持つことではない。
友達が大勢いることではない。
お金を人に自慢できるほど稼ぐことでも、使うことでもない。
真に「豊か」ということは
「今、この瞬間」に
感謝できること。
感動できること。
美しいと思えること。
満たされること。
それが「豊かである」ということではなかろうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
確かに戦後、日本は奇跡的な復興を遂げたかもしれない。
今ではインターネットが発達して、大抵のものは簡単に手に入るようになった。
けれどもその代償として、我々は豊かさを失ってはいないか?
人との繋がりが薄れ
家族すらも信用できず
自分の存在を軽く見るから
人を尊重することができない。
空の色に感動したのは、どれくらい前のことだろう。
最近、周囲の花をきれいだと思ったことがあっただろうか。
春の息吹、夏の熱風、秋の木枯らし、冬の凍った空気。
風を感じて、四季の移ろいを楽しんだ記憶は、果たしてあるだろうか。
確かに日本はモノがあふれ、生活レベルだって上がった。
アジアなのにヨーロッパの列強と並んだ力、度重なる危機を乗り越えてきた力は、幾度となく世界を震撼させ、感動させてきた。
その代償に、我々は何を支払ったのか。
いや、何を「支払わされて」きたのか。
その答えのひとつが、「真の豊かさ」を考えた時に顕れてくるように思う。
生きているだけで私達は成功者、という理由
自然のバイオリズムだったらしいが、昨日はやたらと落ち込みがちだった。
そして今朝、「成功」という意味を改めて思い出した。
私達はとにかく失敗に目が行きがちだ。自分に対しても、他人に対しても。
それは失敗を見て改善・回避することで祖先達は生き延びてきたDNAに刻まれた記憶があるから、ある意味当然の流れなのだ。
大昔、究極的な失敗は「死」に繋がっていた。だから危機回避はとにかく必死。文字通り命がけだった。
けど、私達は成功を体験したことがない人は誰もいない。
そう断言できるのは、「私達の日常こそが成功体験の塊」だからだ。
私達は、生きているだけで成功者なのだ。
考えてもみてほしい。
私達は生まれた時、何もできない無力な赤子だった。
そこから周囲の大人達に見守られ、寝返りを覚え、自分で動くことを覚え、立つことを覚え、歩くことを覚えた。
恐らく、この過程を経験していない人は地球広しといえどほぼゼロの確率くらいで居ないだろう。
そしてその後からも様々な体験を積み上げてきた。
言葉を覚え、会話を覚え、自分で考えることを覚えた。
興味のある分野があればそれを積極的に勉強してきたかもしれない。
誰かに自分の思いを伝えて、その気持ちが伝わったことも、伝わらなかったこともあるかもしれない。
そうやって様々な経験を経て、今の自分が存在し、今の日常ができている。
考えも、習慣も、道のりも、全てが自分だけの、唯一無二の成功体験。
私達が生きている日常は、そんな奇跡に満ちあふれている。
クソババアに対する後悔
明日はクリスマスイブだ。
好きなケーキ屋さんでホールケーキを買った、とうっかり母に話したことから、うちでクリスマスパーティーをやることになった事を今更後悔している。
実家にいた時、そこに安息はなかった。
常に母親の立てる物音を気にして、母が部屋に近付いてきたら全身で警戒した。
唯一、自分の部屋だけは勝手に入らない、というルールを設けて親が守っていたから、実家に居続けることができたが、ある日母がこれを破ったので、私は母が出かけてる隙を見て荷物をまとめ、とりあえずホテルの部屋を押さえてそこに逃げ込んだ。
そこから丸一年以上、家族には頑なに住まいを明かさなかった。もちろん正月も帰らなかった。
そんな経緯から現在は実家を出て一人暮らしをしている。
どうしても住みたい場所が実家の近くにあるので、残念なことに実家の近所に住む形になっている。
実家まで歩いて20分くらいの距離だ。
そんな母と、この夏に再会した。そして大丈夫そうだったので、交流を再開した。
そんな気の緩みが災いした。
ケーキをホールで買った。クリスマスなのだから当たり前だ。一緒に食べる相手など居ないが、「一人でケーキをワンホール食べる」という子どもが持つ夢を実現しようと意気込んでいた(そしてそれができる位上質で軽い口当たりのケーキなのだ)。
何故かそのケーキを母とシェアすることになり、それなら、と我が家でクリスマスパーティーをすることになった。
実家でやるならもれなく、母の作った手料理を食べさせられるからだ。
料理は材料や調味料ももちろん大事だが、案外影響が大きいのが「空間力」と「作り手の調子」だったりする。
材料はともかく、調味料・空間力・作り手の調子、全てにおいて我が家の方がはるかに条件が良い。
そして母の手料理は不味くはないが、食べればもれなく気の利いたコメントを求められ、疲れるから食べたくないのだ。あと調味料が良くないから体への負担が半端ない。
そんな理由で我が家でのパーティーを切り出した。食材は母親持ち、調理と場所の提供は私持ち。
どう考えても労力的に割に合わないのは、まあいい。調理は大好きだから苦にならない。
問題は、「あのクソババアを家に呼ぶのか」ということ。今日会ったら非常に不幸なオーラを出していた。
あのオーラをうちに呼び込むのか……と酷く後悔した。
そして今から対策を考える。ドレスコードを決めて、レストラン並みのサービスを提供して、レストラン並みの金を取ろうか。
正直、それでも全く問題ないレベルの料理を出せるし、準備をしている。
(最近ほとんど外食しないのは、飲食店で提供されるものの大半が口に合わなくなったからだ)
そうすれば母の不幸オーラを払拭し、料理に「空間」と「サービス」という付加価値を付けた分の正当な価値をお金で受け取れる。
「当日の朝、母に言う」という点を除いて全く問題がなかったりする。
それで断られて私が失うのは、あの美味しそうなワインを飲む機会だけだ。
こうして書きながら「良いかもしれない」と思えてきた。
THE・クソババア
斎藤一人さんの音声を聞いて、自分がうまくいかない原因に母親の存在があることが分かった。
↓そのことを気付かせてくれた動画↓
https://youtu.be/rLoXCosXidc
うちの母親は、わたしが上手くいくと分かりやすく嫉妬する。
自分の気分が悪くなると、家族の空気が悪くなるのも構わずへそを曲げる。
実家にいる時は常に母の物音に注意を払い、できるだけ顔を合わせないように息を潜めて暮らしていた。
実家に安息はなかった。
けど母は周囲からいいように見られたい人だから、必死に「良い家庭」なのだと刷り込んできた。
他の家の悪い所と自分のやっている良いことを比較して自分のやっていることを正当化し、
どこか不満を持てば他の家だってそんなものだと信じ込ませ続けた。
他の家では、テストで良い点を取ればお小遣いが貰えた。
うちでは頑張ってもほめられることもなかった。頑張るのは「当たり前」であり、頑張れないことは即ち無価値だったからだ。
家の手伝いは、長女という理由だけでさせられた。
母曰わく、長女は無償で家事を手伝うのが当然らしい。
その一方で、私の望みが叶えられることはなかった。
母に私の話を聞いてほしい時、決まって言われたのは「今疲れているから後にして」だった。
私が自分の頭をかち割ろうと家の柱に頭をぶつけ続けた時、決まって言われたのは「家が傷むから止めなさい」。もしくは「うるさいから止めなさい」だった。
母からすれば、私のことよりも家(という建物)の方が大事だったのだ。
私の両親は建築士だ。実家はそんな両親がこだわりと予算の兼ね合いを考えてこだわって建てた家だ。
だからそんな「夢のマイホーム」を大切にしたい気持ちがあるのだろう。
その思いが、実の娘よりも勝っていることは実家にいるとき、何度も思い知らされた。
自殺を図ったことがある。
というか、一時的の私は毎日のタスクに「自殺」を織り込み、それを先延ばしにすることで生きていた。
多分、今でもその日のタスクをやり切れないのはこの頃からの名残だ。その日のタスクを毎日やり残したから、今でも私は生きている。
私は毎日、死ぬことを考えていたから生きてこられた。「死ぬのは明日でいいや」と先延ばしにし続けてきたから生きてこられた。
この頃だって親は私に無関心だった。
家事をやるように言い、頑張ってやろうとしたら先回りしてやって無能扱いした。
そのくせ私が親のストレスで過呼吸を起こして倒れれば、自分は無関係だと言って逃げる。
外で倒れても、家からわずか徒歩10分の所に迎えに行くよりも自営の仕事を優先させた。
学校で倒れた時は、車で一時間半かかる道のりを「嫌々」迎えに来た。
自殺未遂が原因で入院した時も義務感で見舞いに来ていた。
私は知っている。母は「周囲から良い母親だ」と思われる時しか動かない。
学校で倒れた時は、私が一人で帰れないと連絡を受けた以上、そこで行かないと「悪い母親」だと学校関係者から思われるから来たに過ぎない。
入院の見舞いに来ていたのも、定期的に来なければ「近所なのにあまり来ない」と病院関係者から思われるから来ていただけだ。義務だったから面会しても会話などない。互いに義務に満ちたつまらない時間を義務的にこなしていたに過ぎなかった。
実家で、親のストレスで倒れた時、自分は無関係だと言って逃げたのは、逃げた所で近所にバレることはなかったからだ。逃げても周囲からの「良い母親」というイメージが傷付かないからに他ならない。
そんな母親に認めて貰うため、私は愚かにも必死で何事も頑張った。
結果、うつ病と離人症を発症した。また、何度も自殺を図った(母親はその事にも無関心だったが)。
ちなみに離人症とは、可哀想すぎる自分を受け入れられなくなって、心が「これは自分のことではない」と第三者ポジションを取る症状らしい。
可哀想すぎる自分を他人事と受け止めることで、心を守ろうとする精神状態のこと。私はこれを長年患っていた。
これらの経験から、私は自分が無価値である、という価値観を持っている。
だから能力を生かせない職場、能力と給料が明らかに見合わない職場を転々としてきた。
分かりやすく言えば、私の高い能力を食い物にする職場を率先して選んできた。「自分は無価値である」という証拠を現実化するために。
この事を指摘するかのように、音声の中で斎藤一人さんが話している部分があった。
親の期待に応えようとしすぎた子どもは、自分に価値がないと思い込んでしまうのだそう。
だから「良い人」であることを自分の価値にしようとするのだとか。
そうやって「良い人」でいようとし過ぎるあまり、自分自身を追い詰めてしまう。
音声で例に出ていた女性は、体調が悪くなったのに血液検査などは一切異常なし。それは「良い人」でいようとし過ぎた結果なんだとさ。
この音声を聞いて、私は「クソババア」を連呼した。
そういえば、過去に親や周囲の求める「良い人」象を捨てて破天荒なことをした時、決まって人生は上向いた。
嫌なことは嫌だと言って良い。
むしろ言った方が人生良くなっていく。それを思い出した。
不満や悪口を言ってはいけない理由を説明できますか?
「不満や悪口を言ってはいけない」なんてよく言われるけれど、その割にきちんと守っている人は驚くほど少ないように思う。
(単に言わなければ良い訳ではないが、その理由は後で説明する)
そもそもなぜ「不満や悪口を言ってはいけない」のか。
「本人の居ない所で陰口をたたく相手は、自分が居ない所で同じように自分の陰口をたたいているんじゃないかと思う」
だから信用できない、というのが一般的な説明だと思う。
これがスピリチュアル的な説明になると
「悪口や不満を言葉にすることで悪い周波数を発することになります」
「発したものが返ってくるのが宇宙の法則です」
「だから悪い事が自分に起きるのです」
みたいな説明になる。平たく言えば「引き寄せの法則が発動するよ」ということ。
うーん、確かにどちらも相手を選べば通じる説明になると思うが、どうも腑に落ちないのは「つまり言葉にしなければ、思うだけなら問題ない」という結論になるからだと思う。
はっきり書いてしまえば、不満や悪口は言葉にしなくても、思っただけでもその効果は発揮される。これは経験則で断言できる。
何故なのか?
この世界には実に情報に満ちあふれている。
自然豊かな公園が広がっているとして、そこに3人の同じ年の女性が立っていた場合、その公園で3人が思うこと、感じることは全員違ってくるはずだ。
何故なら、これまで経験してきたことが全員違うから。「目の前の世界」から何を受け取るか、は「これまで自分が何を経験し、選んできたか」に左右される。
「木々の緑が美しい」と思う人もいれば「風が冷たい」と思う人もいれば「子どもの声がうるさい」と思う人もいる。
その違いは、同じ光景のうち「どこに意識を向けているか」に他ならない。
「不満や悪口を言ってはいけない」というのはここに繋がってくる。
この教えは、端的に言えば「悪いことにばかり意識を向けてるとろくなことがないよ」ということ。
例え目の前で良いことが起きていたとしても、その内容が98点ならば、2点分の悪いことに意識をフォーカスして「悪いことだった」と結論づけてしまう、なんてことが普通にありうるということだ。
一番の問題は「自分がどこに意識を向けているか」になってくる。
周囲からの評価が落ちるのも、宇宙の法則が発動して悪いことを引き寄せるのも、自分が悪いことに意識を向け続けた結果論でしかない。
そしてなお悪いことに、不満や悪口を言葉にしたとき、その言葉を誰よりもたくさん聞くことになるのは他でもない自分自身なのだ。
自分で言ってそれを自分で聞く。実はこの「音で聞く」というのは直接脳に影響しやすい。
だから自分で言った不満や悪口の影響を誰よりもまず、自分が受けることになる。自分の言葉により、自分自身を洗脳してしまうのだ。
じゃあ不満や悪口を言いたくなった時、どうすれば良いのか。
簡単にできる解決法がある。
用意するものは--------------------------------
・紙(トイレットペーパーだとなお良い)
・ペン
---------------------------------------------------------
静かな空間でやれると更に良い。
やることは極めて簡単。静かな空間で、心に浮かんだ罵詈雑言、悪口、不平不満、悲しみ、苦しみ、悩み、辛さなど、とにかく思いつく限り紙に書き出していくだけ。
箇条書きでも、話し言葉でも良い。イラストだって構わない。自分の思うまま、書きやすいようにとにかく書き出していく。
自分の気持ちを紙にぶつけるように書き続けていると、次第に気持ちが落ち着いてくるはずだ。
気が済んだら、その紙をビリビリに破いて捨てる。
トイレットペーパーならトイレに流す。
扱いに責任が持てるなら、火を点けて燃やしてしまっても良い。
感情は心に溜め続けるとそれだけで自分を蝕んでいく。
それが悪い感情なら尚更だ。
誰かに言いたくなるほどの強い悪感情ならばこうやって解消してしまうのが良いだろう。そうやって気分が晴れやかになったら、改めて目の前の出来事の良い所に意識を向けるようにしていけばいい。
これを繰り返していけば、確実に人生が良い方向に変わっていく。
仕事の質を上げる
仕事の質を上げるには、本質的には目的の質を上げるしかない、と思っている。
「何故働くのか?」
そう聞かれた時、何と答えるのか。
答える相手は親でも兄弟でも友人でも先輩でも上司でもない。
【自分自身に】だ。
自分自身に対して、働く理由をどう説明するのか。
そこには一切の嘘をつく必要がなくなる。
それと同時に自分の本心と向き合うことになる。
すぐに答えが出るものではない。
迷って、悩んで、時間をかけて、心のノイズが消えた時、本心が湧き上がってくる。
その答えは、お金か? 安心か? 保障か?
きっと、普段思ってもみなかった答えが出てきたことにびっくりするだろう。
けれども世間一般の答えから外れる「その答え」こそが本質的な仕事のモチベーションであり、それを追い求めることこそが仕事の質を上げることに繋がると考えている。
もう一つ、仕事の質を上げる方法がある。
それは「上司の目線に合わせること」だ。
自分が目の前の欲望、例えば週末女の子と遊びたいがために毎日働いているとしても、上司が「お客様を喜ばせる」ことを目的にしているのであればその感覚に合わせていく必要がある、ということ。
少し難しい言葉で「全体性を含む」という言い方をする。
自分のトクだけを考えるのではなく、全体を見てどう動けば良くなっていくのか、という視点で物事を考えていくのだ。
自分のトクだけでなく、全体のトクを考えていく。
こう考えると、個人的に見ればむしろソンしているように見えることだってある。
それは「どれだけの期間で物事を見るか」に掛かってくる。
「今この瞬間」トクすれば良いのか。
今ちょっと手間を掛けることで少し先、もっと良くなるように動くのか。
それとも、もっと先、何年も経ってから大きく花開くよう考えて行動するのか。
このスパンが長いほど難易度は上がり、それゆえに自分自身が磨かれる。
そして自分自身が磨かれるからこそ、同じ仕事であっても自然とその質は上がり、周囲からの評価だって上がっていく。
もしかしたら上司よりも自分の見ている目線の方が高いかもしれない。
そんな時は「今置かれた場所」で自分がやれる最善を尽くせば良い。
結果として問題が起きてその職場を離れることもあるかもしれない。
けれどもそんな時だって、見てくれている人はちゃんといる。
恐れず、次の場所に進めば良い。
自分がそれまで信じてやってきたことは自分の力となり、次の場所で確実に生かされる。
なぜなら、次に与えられる場所は自分が信じてやってきた「それ」をより活かせる場所だからだ。
離別を恐れることなかれ。
別れは同時に新たなる出会いの前兆だから。
これまでの関係性に執着すれば、その執着が新たな縁を潰してしまう。
「何故働くのか?」
その答えを見つけることができれば、どこに行ったって最高の仕事をすることができるものだ。