一定不変の目的を果たす
昨日、家の掃除をしていたら昔引いた占い結果が出てきた。
神社にあった、ちょっと変わった占いだ。
自分の誕生日が書かれたものをおみくじのように引いて、そこに書かれているものを読む。
もう十数年前に引いたのだが、これを読んだ時衝撃が走ったのを覚えている。
それまで自分の中で占い、といえば、雑誌やテレビなどで見かける血液型占いや星座占いであり、それらは根拠がないから半ば当てずっぽうなのだろう、と思っていた。
実際それらを見ても、何となく当たっているようないないような……という微妙な結果が多く、総合的に「まあそんな感じだよねー」と娯楽として流して終わることがほとんどだった。
けれどもこのおみくじ占いを引いた時、親や周囲からあまり指摘されたことがなかったような、自身の深い所まで書かれていたのだ。
決してテンプレでは有り得ない、自分の基本的な性格について事細かに書かれていることに衝撃を受け、それからこの占いは長年大切に持ち続けていた。
どうしてここまで自分のことを当てられるのだろうか?
親兄弟でさえ理解してくれない自分の深い部分を言葉にしてくれたその占いは、たった紙一枚に書かれていることだったのに、それだけで大きな信頼を寄せることになった。
そこから時が経ち、精神世界のこと、占いの世界を人よりも深く知るようになって、何故この占いがここまで自分のことを当てられたのかが分かるようになった。
誕生日がどういうものなのか、それを真に理解すればこの占いが当たったのは実に当然のことだった。
そんな占いが、何年かぶりに手元に現れた。
わたしはこれを読み返し、仕事部屋の壁に貼り付けた。
そこにはわたしのことを「仕事のために仕事を愛する人」「一定不変の目的を果たす」とあった。
実は少し前に、わたしは仕事を辞めていた。
書類上、退職したのは12/13だが、最後に出勤したのは12/8だっただろうか。
根本的にわたしには合わない企業だったにも関わらず、そこで共に働く人が熱くて明るい、良い人たちだったからやってこられた。
たった一年半の出来事だが、この企業で一年半もやってこられたこと自体がわたしにとって奇跡だった。
けれどもそんな人たちが上層部からの圧力でどんどん性格が変わり、無茶を言われることが増え、しかも相談しても改善が見込めなかった。
このままだと迷惑がかかるのが分かっていたから、せめて迷惑が少なくなるように辞める準備を進めてきたが、その前にわたし自身の限界が来てしまい、ある出勤日から出勤できなくなったのだ。
ドロップアウトした形だった。
これだけ書くと、職場にも迷惑がかかり、わたし自身は仕事を放棄し、強い罪悪感を感じそうな気もする。
けれどもわたしに罪悪感はない。
自分でも不思議だった。
この占いに書かれた文章を読んで、腑に落ちたことがあった。
「仕事のために仕事を愛する人」
「一定不変の目的を果たす」。
一般的な解釈をすれば、「仕事」とは会社から与えられた役割であり、わたしは今回それを投げ出して逃げ出したことになる。
けれどもわたしが定めた「仕事」は、会社からではなく天から与えられた役割だ。
わたしはその役割を、会社の役割を通して周囲に示し続けていたに過ぎなかった。
わたしにとって、この会社で働くことは決してお金のためではなく、「一定不変の目的を果たす」ために「天から与えられた仕事を行う」ことだった。
その仕事とは、周囲の成長を促すこと。
目的とは、自分の成長、周囲への貢献。そして共に成長していくこと。
この企業で上手くいっていた時は自分も周囲も成長できていた。
しかしそこで「もっと、もっと」と更なる結果を上層部から求められ、達成してもその結果には一切触れず「あっちが悪い、こっちが悪い」と出来なかった所だけを指摘され続けてきた。
こうなれば働く理由が「成長の喜びを味わうこと」から「叱られないため」にすげかわってくる。このストレスにやられて、同僚達が壊れていったのだ。
挑戦すれば高確率で最初は失敗する。失敗すれば叱られる。
働く理由が「叱られないため」になれば、叱られるリスクのある挑戦は「やってはいけない選択肢」の筆頭になる。
挑戦のない所に成長はない。
そんな所に貢献しても、何も生み出さない。むしろ自身の成長の芽を潰すことにすら繋がる。
こうなればもう、職場や企業には「失敗」という痛みから学びを得てもらうしかなかった。
“あなた達のやり方は間違えていますよ。そんなやり方を続ければ破滅に向かいますよ”
企業から与えられた役割を通して、間違いは間違いだとずっと伝え続けてきたが、トップダウンの文化しかないこの企業には末端の尤もな意見を聞く素地が育っていなかった。
そしてわたし自身、この素地がない所で強く言い続けることができなかった。
その悔しさを感じながら、わたしは仕事をドロップアウトした。
何度も何度も考えた末のことだった。
何度考えても、どう考えても、わたしがそこで頑張れば頑張るほど、周囲の堕落に繋がる、という結論に達していた。
だから「そのやり方は間違えていますよ」というメッセージを、自身が「脱落者」になることで示す以外になかった。
「会社の仕事を放棄しました」と言えば、人の世では非難を受けるだろう。周囲に迷惑をかけるこのやり方が、信用に命を懸ける大人の社会では有り得ないからだ。
けれどもわたしは、天から与えられた「一定不変の目的」に沿って「天の仕事」をした。
罪悪感がなかったのは、わたしは確かに仕事を全うしていたからだ。
後の結果は天の采配に任せよう。企業の放棄してしまった仕事も、自身の身の振り方も、そう決めている。
企業がこれからどうなっていくかは、しばらく置いてから確認しようと思う。
かむながらたまちはえませ。