人の世界と物の世界

「海賊と呼ばれた男」のモデルとなった、出光佐三
現在の出光石油の創始者で、利権のがっちりしていた当時の油業界で奇抜な手を使って困難を度々切り開いてきた手腕から、「海賊」と呼ばれることになった。

そんな彼の書いた本を読んでいると、度々「人の世界」「物の世界」という言葉が出てくる。

「物の世界」とは、数字で計り、損得勘定をする世界。
数字を主張し、数字で判断する世界。
その数字が一定基準以上ならば「トクしてる」、基準を下回れば「ソンしてる」という判断になる、極めて明確な世界。

数字や決まり事だけで動くから、ごまかしのテクニックが発達し、ごまかしを規制する決まり事が発達していく。

画一的で一見効率的だが、「物の世界」は血の通わない世界。
そこに暮らすと、自分の持ち場・領域を明確に定めて「いかに自分の領域をトクにするか」という自己中心性が育つ。

皆がみんな自分のトクを考えるのだから、対立競争が起きて当然。しかも相互協力が見込めないのだから(協力すれば自分の能力や資産を相手に投資することになり、自身の資産が減って相手を成長させるからソンしかない、という発想になる)、当然そこに無駄が生じてくる。
 


一方で「人の世界」は人情の世界。
昔の家族関係のような、損得を越えた世界。
それは数字で計れるものではなく、一見非効率的。

けれどもここには、「物の世界」が切り捨ててしまっている「数字以前」の世界が基準になっている。

つまりはより抽象的な世界。
言い換えれば、よりエネルギーの高い世界。
柔軟で、包容力があり、可能性に満ちた世界。

これを古来から実践し続けてきたのは、世界広しといえど《日本》ただ一国のみ。



これまでの世界では「物の世界」の考え方が強かったかもしれない。

けれども「物の世界」よりも「人の世界」の方が強いのは歴史が証明している。



種子島に入った2丁の火縄銃から、たった数年で日本人は同じものを「自作」するようになった。
世界中で火縄銃を売り歩いていた売人たちはこれまでそんな国がなかったから、酷く驚いた。

そうして世界有数の拳銃国家になったにも関わらず、「拳銃には魂が宿らない」という理由で日本は刀社会に戻ることを選んだ。



日本が戦争に参入することになった時、爆弾を落とすための高性能飛行機など、日本にはノウハウすらなかった。

しかしそこからしばらくも経たない内に作り上げられた飛行機は「ゼロ戦」と呼ばれ、長距離飛行と小回りを両立させる「脅威」として世界を震撼させた。



この時、更に世界を恐怖させたのは「仲間のために命を懸ける」という発想だった。
国のために死ぬ。その考えは自己中心主義には到底理解し得ないものだった。



「人の世界」に脅威を覚えた諸国はそこで様々な策を講じてきた。
このままでは自分達が危ういと、心底恐怖した証拠だ。

………………

現代、物の世界が限界を迎えた。
ごまかしすらも効かなくなってきたのだ。

今、改めて「人の世界」が求められている。