倫理と好奇心
神様はなぜ、人間に好奇心を持たせたのかーーー?
子どもの頃、そんなことをぐるぐると考えた。
わたしの中にはマッドサイエンティストに通じる好奇心が眠る。
分野を横断してとにかく思考を巡らせる癖があるから、気付けばあまり人には言えない、危ない思考実験を繰り返していた。
実験における、観測者と被験者。
同じ人間なのに、どうしてこうも立場が大きく異なるのか。
思考実験の内容が内容なので詳細は控えるが、湧き上がる疑問や感情を言語化するとこんな感じだろう。
そして同時に思う。
神様はなぜ、人間に好奇心を持たせたのか。
人間が人間に対して非道な実験を施す。
そしてそれを観測者の立場から見たとき、自分の中に「人としての倫理」と「科学者としての好奇心」がせめぎ合うことになる。
ちなみにこの時の思考実験は、実際に戦時中、某国が行った実験が土台になっているので中々にえぐかったりする。
けれども戦時中ゆえ、非道だろうが狂っていようが「科学者としての好奇心」を満たすことがそのまま「国への忠誠」に通じる時代。
そんな狂気を加速させるほどの好奇心を、神様はなぜ人に持たせたのか。
人間はそこまで狂うことができる。好奇心というエゴに従い、悪魔さえも身震いしかねない境地にまで堕ちることができる。
そうして思う。
人道とはなにか。倫理とはなにか。
どこまでがヒトで、どこからがケモノなのか。
この所業が赦されるなら、この世界に神はいるのか。
残された者の怒り。悲しみ。
時代の抱える闇。
そこから時が流れ、現代に至る。
戦時中、某国が見せた狂気が消えた訳ではない。
むしろ形を変えて、水や空気、日常の中に溶け込んでいる。